クラシック・シリーズ
〔SJ MONTHLY WATCH 10〕 佐々木明
大いなる足踏み
今、焦る必要は何もない。苦しいけれど、この足踏みは重要なステップなのだ
スタートして数旗門を滑っただけで、佐々木明は 「ああ、今日の滑りは遅いな」 と思ったという。自分がイメージしていたスピードに、実際のスピードが追いついてこないのだ。シャモニでのワールドカップ男子スラローム第4戦。彼が左膝側副靭帯の損傷というケガから復帰した最初のレースのことである。思うようにスピードが乗らず、もどかしくて仕方がなかったが、彼はすぐさま頭を切りかえた。遅いといっても、2本目に残れるタイムは充分に出せるだろう。ぎりぎりでも残りさえすれば2本目は早い順番でスタートできる。この軟らかいコースならば、2本目で大きく挽回するチャンスはあるはずだ。だとしたら、1本目はそこそこの順位でゴールし、2本目に勝負を賭けよう。そう冷静に戦略を練り直した彼は、安全第一のおとなしい滑りで1本目をゴールした。ベストタイムのカレ・パランダーには、2秒ちょうどの差で20位。つねに100%のアタックを身上としてきた彼にとって、けっして納得のいく結果ではなかったが、現在の彼が置かれた状況を考えれば、仕方のないことだった。コースはすでにひどく荒れていたし、何といっても佐々木にとって、この日は、11月23日のパークシティ以来、約1カ月半ぶりのレースだった。イメージと実際の滑りにギャップがあったとしても、それは仕方のないことだった。
11月29日、オーストリアのゾルデンでフリースキー中に転倒し負傷。急きょ帰国して、国立スポーツ科学センター (JISS) で約1カ月弱のリハビリとトレーニングを経て正月早々にヨーロッパに。シャモニ
(1月10日) からの復帰に向けて急ピッチで滑りを仕上げたものの、それまでに行なったポールトレーニングは、年末に菅平で滑った2日を合わせても、わずか4日間にすぎない。
「大会の感覚というか、レースでアタックする感覚がやっぱりなくなっていた。ああ、これがブランクというものなのか、って痛感した。 (攻撃的に) いっているつもりでも、いつもとは何かが違うんですよ」。
夢の中をもがき走るような、なんとももどかしい滑りで1本目を終えた彼は、しかし基本的だがとても大事なことを思い出していた。
「やっぱり、スキーは横にしちゃいけない。可能な限りまっすぐ下に向けていかなければいけないんだって、1本目の滑りを振り返って、あらためて思い知った」。
降りしきる雨をついて行なわれた2本目、本来の滑りを取り戻した彼は、大きく順位を上げた。11人を飛び越して一気に9位にまで浮上したのだ。
緩斜面の多いシャモニのコースは、佐々木が好きなタイプではない。並の選手ならばスキーを横にしてしまうようなところでも、スキーを下に下に落としていく、その常識外れのアタックでスピードを稼ぐ彼にとって、斜面は急であればあるほど有利となる。一方
「別に苦手意識があるわけではないけど、うまいか下手かと言われれば、緩斜面は下手」 と彼自身が言うように、課題はつねに緩斜面にあった。したがって、ただ中・緩斜面がうねうねと続くだけで、急な部分のほとんどないシャモニのコースは、彼にとってはタイムの出にくいコースだったのである。
だが、2本目の彼の滑りは、そんなことはほとんど感じさせなかった。5位以内をねらったという本人の思いには届かなかったものの、復帰第1戦でいきなりシングル入賞。この予想以上の結果に、児玉修ヘッドコーチは、
「レース前からずいぶんでかいことを言っていたけど、口だけでなく、きちんと結果を出すんだから、たいしたもの。正直言って、最初だからぼちぼち行けばいいと思っていた。でも、明にはそういう発想はなかったみたいだね」
と、半ばあきれたような表情で、エースの復帰を称えた。
翌週、ウェンゲンでのスラローム第4戦は、大荒れのレースとなった。第1シード15人のうち、実に7人が1本目で姿を消す波乱の展開。それでなくとも世界でもっともむずかしいスラロームコースと言われるウェンゲンである。強豪が次々とコースアウトしていくために、スタート付近はしだいに重苦しい雰囲気に包まれていった。これだけ失敗が続くということは、コース上に何かとんでもなく困難な状況があるということである。各国チームの無線交信が慌しくなり、スタートを控えた選手たちに、さまざまな情報が伝えられた。と同時に、彼らは作戦の選択を迫られることになった。リスクを承知であえて攻撃的に行くか、それとも、ゴールまで無事に滑りきることを優先する安全策をとるか?
佐々木は、第1シードの選手の多くが失敗しているのを聞いて、
「やった。今日は、俺の勝ちだ!」と思ったという。彼が選択した戦略は、言うまでもなく極限までのアタックだった。他の選手が守るのだったら、自分が攻めれば、俺の勝ち。単純だが、実に彼らしい決断でスタートした。だが、10数秒後、彼は激しい自己嫌悪を感じることになる。中間計時のやや手前、急斜面にさしかかる手前のテラス状の緩斜面でバランスを崩してしまったのである。細かいリズムのブラインドゲートに入りきれずコースアウト。
「あーっ、やっちまった。これじゃあ、みんなと同じだよ」。思わず自分自身に悪態をつかずにはいられなかった。こういう荒れた展開のときこそ、きちんと自分本来の滑りをして、表彰台をねらわなければいけないのだ。それなのにみすみす自分も失敗し、大量の途中棄権者リストに名を連ねてしまう悔しさを思ったとき、佐々木は無意識にコースを登っていた。スケーティングで数メートルを登り返し、すばやく向きを変えてゴールをめざした。このタイムロスは、もはや取り返すすべはなく、5秒14差の51位。2本目に進むことはとうてい不可能だった。それでも完走して記録を残すのは重要なことだった。中間計時からゴールまでのスプリットタイムは8位だったのがわかったからだ。この区間は、コース上でもっともむずかしい急斜面と、後半の複雑なうねりを含んでおり、多くの選手がここで失敗している。そこを17番スタートの佐々木は8位のタイムでカバーしている。しかも、そのタイムのなかには、スケーティングで登った数メートル分のロスも含まれているのだ。結果的に彼は、コース後半をすばらしい速さで滑っているわけである。それがわかったことは、大きな収穫だった。そしてこの事実は、佐々木明のその後の戦いに非常に重要な転換をうながすことになった。
"一発勝負" の封印
ウェンゲンのレースの後、佐々木は戦略面で大きく軌道修正を図った。これまでの一発ねらいのリスキーな勝負を封印し、確実にゴールしてポイントを重ねることにしたのである。現在の力でも条件さえ揃えば、表彰台、しかもその中央に立つ可能性はあるだろう。しかし、そのためには、つねに最大限のリスクを負わなければならない。当たればでかいが、外れればすべてを失う。ギャンブルのようなリスキーな滑りが彼の魅力であることは確かだが、すでにシャモニのレースで証明したように、普通に滑れば、充分にひと桁に入賞する力のある現在、かならずしもフルにリスクを冒す必要はないだろう。そう判断した彼とそのスタッフは、今季の残りのレースは6〜7割の力でセーブし、確実に完走、ポイント獲得をめざすことにしたのである。まずはポイントを重ねて第1シード入りをめざす。そして、そのうえでチャンスと見たら、思いきって勝負を賭ける。これが、佐々木が立てた新しい戦略である。
キッツビューエルは、その新戦略で臨んだ最初のレースだった。しかし、佐々木の滑りはいつもと変わらぬ攻撃的なものに見えた。最初のチェックポイントをトップと0秒15という僅差で通過。その後さらに攻撃の度合いを強めたが、中間付近でポールをまたいでコースアウト。一瞬のうちに飛び出してしまったので、今度は登り返すこともできなかった。悔しさのあまりストックで思いきりポールを引っぱたいてみたが、それでどうなるものでもなかった。
佐々木にとって、確実性重視への戦略変更は、思ったよりもむずかしいことだった。たとえて言えば、猟犬に獲物を追いかけるのをやめさせるようなものなのだろう。いざスタートし、レーサーとしての本能が目覚めたら、もはやアタックを止めることはむずかしい。だが、彼が成長し、もう一段高いレベルで戦うためには、はやる気持ちを抑えて着実に足元を固めることも必要なのだ。その意味では、このキッツビューエルの滑りは中途半端だった。彼は、今ここで足踏みをすることの意味を、もう一度冷静に考えた。そしてレーサーとしてより高いレベルに進むための覚悟を決めたのである。その結果、シュラドミング、アデルボーデンと2レース続けて完走し、貴重なポイントを稼いだ。
シュラドミングでは 「かるーく流して」 1本目18位だった。コースは今シーズンのスラロームでもっとも硬く、しかも急斜面の連続。よだれが出るほど大好きなコースだったが、攻めたい気持ちをこらえにこらえて着実に滑った。テレビ解説をしていた木村公宣は、これを見て
「大人のレース」 と表現したが、本能と才能に任せて戦ってきた佐々木が、ワールドカップで初めて戦略的に滑ったレースだった。それでも滑り終わった佐々木は、サービスマンの伊東裕樹に笑いながらこう言った。「俺のスキーが一番切れている」。
ところが、2本目は思わぬアクシデントが佐々木を襲った。スタートして間もなく、左のスキー板のインエッジが部分的に剥離してしまったのだ。極端に硬いアイスバーンでは、ときおりこのようなことが起こる。抑えぎみとはいえ、佐々木のように身体を内側に倒しながら直線的にエッジングするタイプのレーサーは、必然的にその危険性が高まる。不運といえば不運。文字通りのアクシデントが、佐々木の身に降りかかったのである。そのため、右ターンではどうしてもスキー板が流れ、バランスが崩れてしまう。鏡のようなアイスバーンのスラロームをエッジの壊れたスキー板で滑ることのむずかしさは、われわれの想像力をはるかに超えている。しかし、佐々木は驚異的な器用さを発揮し、無事ゴールまでたどり着いた。ひとつ順位を上げて17位。悔しい結果には違いないが、我慢に我慢を重ね、14点のワールドカップポイントを手にしたことの価値は大きい。この14点は、おそらく彼の今季最終戦への出場を可能にするだろうし
(最終戦への出場資格は、種目別ランキング25位以内)、また近い将来第1シードに上がるときにも、決定的な助けとなるはずだからである。
さらにアデルボーデンでは、今季最高の7位に入賞した。1本目10位、2本目12位で合計タイム7位。抑えに抑え淡々と滑りきった。スタート前に立てた作戦通りのレース運びだった。やるべき仕事をきっちりこなしたという意味での満足感はあるが、爽快な達成感には乏しいのだろう。表彰式での佐々木の表情は、少し複雑なものだった。
「1本目も2本目も、ひとつのターンもアタックしていない。全開で行きたい気持ちを抑えるのはつらいけれど、今はこういうレースをすることが大事なんです」 と自分に言い聞かせるように語った。その表情の向こう側には
「俺の力は、こんなものじゃない」 という強烈な自負心が透けて見える。だが、負けず嫌いで、誰よりも鼻っ柱の強い彼が、自分の本当の力を温存し、一発勝負のギャンブルを封印している理由は、その先に大きな野望があるからに他ならない。
「勢いで1回や2回ワールドカップに勝ってもたいしたことはない。どうせならつねに表彰台に立ち、ワールドカップのチャンピオンやオリンピックの金メダルをねらいたい」。
そう語る彼は、昨シーズン、トリノ五輪に向けた4年計画を立てている。24歳という最高の年齢で迎えるトリノ五輪で悲願を達成するために、いつ、何をすべきか。究極の目標から逆算すれば、今、先を急ぐ必要は何もないのだ。
昨シーズンのウェンゲンで見せた衝撃的な2位入賞。そして、つねにその滑りの中に輝く大きな可能性。そうしたことから、われわれはともすれば性急な期待をかけがちである。しかし、今は甘んじて足踏みをする彼の覚悟に付き合うべきだ。そしてその大いなる助走を、期待をもって見守るべきなのだろう。